僕の散歩コースにある川沿いの道は、春になると両岸に植えられた桜が一斉に花を咲かせます。視界の端から端までが淡いピンク色に染まり、枝先が川面に向かってしなだれ落ちる様子は、まるで桜が川全体を優しく抱きかかえているかのようです。
川原の薄茶色い土と、満開の花びらが重なり合うこの時期だけの色彩は、何度見ても飽きることがありません。特に、川に架かる小さな橋の上から眺める景色が僕のお気に入りです。
橋の手すりに軽く手をかけ、少し身を乗り出すようにして川上を眺めると、左右から迫り出す桜のトンネルがどこまでも続いていくように見えます。
20代の頃の僕にとって、桜は単なる「春が来たことを知らせる風景の一部」に過ぎませんでした。
当時は目的地へ急ぐことばかりを優先し、わざわざ橋の上で足を止めて数分間も川面を眺めるような心のゆとりや銀杏並木の下で足を止めた秋の午後にある気持ちは、まだ持てていなかったように思います。
それが40代になり、結婚して、妻と一緒に季節を重ねる中で、自然の美しさに対する感度が少しずつ変わってきました。単に「綺麗だ」と思うだけでなく、一年のうちのわずか数日間しか見られないこの風情を、今の自分としてどう受け止めるか。
橋の上を通る風の冷たさと、目の前に広がる圧倒的な花の密度の対比を感じながら、僕はゆっくりと呼吸を整えます。
足元に広がるピンクの絨毯と、普段通りに歩を進めるラッキーの背中
橋を渡り終え、今度は川沿いの遊歩道を愛犬ラッキーと一緒に歩きます。道にはすでに散り始めた花びらが薄く積もっており、一歩踏み出すたびにアスファルトの感触がいつもより柔らかく感じられます。
ラッキーは、この季節ならではの「ピンクの絨毯」に対して、それほど特別な反応を示すわけではありません。
彼は時折、道端に溜まった花びらの山に鼻を近づけて「くんくん」と熱心に匂いを確認しますが、食べようとしたり、はしゃぎ回ったりすることもなく、基本的には普段と同じリズムで淡々と歩を進めます。
リードを通して伝わってくるラッキーの足取りは軽やかで、彼なりに春の空気を楽しんでいることは伝わってきます。その飾らない、いつも通りの彼の背中を見ていると、「桜が満開だからといって、浮き足立つ必要はないんだ」と教えられているような気分になります。
世間では、桜が咲けば誰もがSNSに写真を上げ、その美しさを共有しようと躍起になります。もちろん僕もその一人ではありますが、隣で淡々と歩くラッキーの姿を見ていると、特別な風景の中にあっても「日常」を持ち続けることの大切さに気づかされます。
美しい花の下を、いつもの相棒と、いつものペースで歩く。その変わらない動作の繰り返しこそが、40代の僕が求めている安定した幸福の形なのかもしれません。
家族連れで賑わう河原の喧騒を眺め、お花見シーズンの到来を実感する
川沿いの開けた場所では、河原にブルーシートを敷いてお花見を楽しんでいる家族連れやグループの姿がちらほらと見受けられます。子供たちが走り回り、どこからかお弁当の香りが漂ってくるその風景は、静かな裏道を歩く普段の散歩とは全く違う活気に満ちています。
僕や妻は、自分たちでシートを広げて宴会をするタイプではありません。けれど、楽しそうに笑い声を上げている人たちの姿を少し離れた場所から眺めるのは、決して嫌いではありません。
「ああ、今年も本当にお花見の季節が来たんだな」と、他人の喜びを通して季節の盛りを実感する。それは、どこか映画のワンシーンを眺めているような、穏やかな客観性を持った楽しみ方です。
40代という年齢になり、仕事では常に主体的であることを求められますが、散歩の時間くらいはこうして「街の風景の一部」として、周囲の賑わいをただ受け入れていたいと感じます。
河原で遊ぶ子供の声を遠くに聞きながら、僕は再びリードを短く持ち直し、ラッキーが他の通行人の邪魔にならないよう注意を払いながら、ゆっくりと歩みを進めました。
一眼レフを構えて、桜の木の下に立つ妻とラッキーの姿をレンズに収める
桜の季節の散歩には、普段よりも重い一眼レフカメラを持ち出すことが増えます。こうして季節ごとの光を追いかける時間は、重い一眼レフを肩にかけて歩く午後と同じく、僕にとって散歩そのものの楽しみになっています。
この時期ばかりは、家でゆっくりしたいと言う妻を少し強引に誘い出し、三人で川沿いまで足を運びます。僕にとっての最大の楽しみは、満開の桜を背景にして、妻とラッキーの写真を撮ることです。
「もう少し左に寄って。そう、そのまま」
僕はファインダーを覗き込み、構図を微調整しながらシャッターを切ります。
レンズ越しに見る妻は、少し照れくさそうに笑いながらラッキーを抱きかかえています。その背景に広がる桜のピンク色は、肉眼で見るよりもずっと鮮やかで、まるで二人を祝福しているかのように見えます。
高性能なレンズが描き出すボケ味の中に、大切な家族が収まっていく瞬間、僕は言葉にできないほどの充足感を覚えます。
撮影を終え、カメラを首に下げて家路につくとき、僕の心は不思議と軽やかになっています。20代の頃には知らなかった、機材を通して「今」を記録する喜び。そして、その写真を後で妻と一緒に見返す時間の温かさ。
マンションのエレベーターに乗り込み、カメラの小さな液晶モニターを三人で覗き込むとき、今日という一日がまた一つ、僕たちの家族の記憶として刻まれたことを実感しました。

