近所の公園へ続く歩道が、ある時期を境に一変します。見上げれば銀杏の葉が重なり合って空を覆い、足元に目を向ければ、アスファルトが見えないほどの黄色い絨毯が広がっています。それは、普段見慣れた街の風景とは一線を画す、まるでおとぎ話のワンシーンに迷い込んだかのような圧倒的な美しさです。
一歩踏み出すたびに、乾燥した銀杏の葉が重なり合い、サクサクとした軽い音を立てて沈み込みます。ところどころに黒い地面が覗いてはいますが、視界の端から端までが黄金色に染まる空間を歩いていると、自分が今どこにいるのかを一瞬忘れてしまいそうになります。
20代の頃の僕にとって、街路樹の変化は「季節が巡っているな」と感じるだけの、単なる背景に過ぎませんでした。美しいとは思いつつも、足を止めてまでその色彩に見入る余裕はなかったように思います。
しかし、40代になった今の僕にとって、この銀杏並木はただ眺めるだけの対象ではなく、大切な家族と一緒に通り抜けるべき、特別な「舞台」のように感じられるのです。
現像後の仕上がりを想像しながら、夢中でシャッターを切る動作
僕は散歩に持ち出した一眼レフを構え、少し先を歩く妻と愛犬ラッキーの姿をファインダーの中に捉えます。逆光に透ける銀杏の葉が、二人のシルエットを柔らかく縁取っています。あまりの美しさに、胸の鼓動が少しだけ速くなるのを感じます。
「これは、現像したらどれほど綺麗な一枚になるだろう」
そんな期待に胸を膨らませながら、僕は夢中でシャッターを切ります。デジタルの良さは、失敗を恐れずに何度でも挑戦できること。最近では、散歩のたびに重い一眼レフを肩にかけて歩く時間そのものが、楽しみの一つになっています。
光の入り方、二人の歩幅、ラッキーの尻尾の角度。納得がいくまでレンズを向け、最高の一瞬を切り取ろうと没頭してしまいます。
カメラを構えている間、僕は完全に自分の世界に入り込んでいます。
周囲を流れる時間も、空気の冷たさも意識から消え去り、ただ透き通った空間の中で光と色を追いかけている感覚。そんな僕を置いて、妻とラッキーはどんどん先へ進んでいきます。
ふと妻が後ろを振り返り、「早く来ないと置いていくよ」と苦笑いしながらこちらを見る。その日常的なやり取りさえも、ファインダー越しに見ると、かけがえのない記憶の一片として刻まれていくのです。
風景がいとおしく思えるのは、そこに「誰か」がいるから
若い頃の僕が見ていた景色は、どこか孤独なものでした。一人で歩き、一人で感動し、それで終わる。けれど今は、黄金色のトンネルを歩く妻の背中があり、その隣を楽しそうに歩くラッキーがいます。
風景がこれほどまでに対象としていとおしく、ドキドキするものに変わったのは、そこに「誰か」がいてくれるからだということに、40代になってようやく気づきました。銀杏の黄色は、二人の存在をより際立たせ、僕に「この時間を大切にしろ」と語りかけてくるようです。
こうした感覚は、川沿いをゆっくり歩きながら腰を下ろす午後にも、ふとした瞬間に顔を出します。
撮影に没頭しすぎて少し離れてしまった距離を、僕は早歩きで詰め寄ります。カメラを首にかけ直し、二人の歩調に合わせる。自分の世界から再び三人の世界へと戻ってくるこの瞬間も、僕にとっては心地よいリズムの一部になっています。
仕事で求められる「成果」や「効率」とは全く無縁の、ただただ「美しいものを美しい」と共有するための時間。この無駄とも思えるゆったりとしたひとときが、僕の心を静かに整えてくれます。
来年もまたこの場所を、同じように三人で歩ける喜び
散歩の帰り道、カメラのモニターを少しだけ確認しながら、僕は隣を歩く妻と今日撮った写真の話をします。足元にはまだ、並木の余韻のように銀杏の葉が数枚、靴についてきていました。
「また来年も、こうして一緒に来ようね」
そんな言葉が自然と口をついて出そうになります。
いつまでも同じように季節が巡り、同じようにこの道を三人で歩けること。それがどれほど贅沢で、壊れやすい幸せであるかを、今の僕は知っています。
特別な事件は何一つ起きない、ただの秋の終わりの散歩。けれど、家路につく僕の心は、先ほど撮った写真のように黄金色の光で満たされています。
マンションの入り口にたどり着き、現実に引き戻される直前、僕はもう一度だけ公園の方を振り返ります。遠くに見える銀杏の木々が、冬の訪れを前に最後の一輝きを放っているようでした。
来年もまた、このドキドキするような景色の中でシャッターを切れることを願いながら、僕はいつものように重いドアを開けました。
