自宅の近くにあるお寺では、時折、境内の外側で小さな市や祭りが開かれます。そんな日は、カメラを肩に下げて妻と一緒にゆっくりと歩いて向かうのが、私たちの週末の楽しみの一つです。
愛犬のラッキーは、並んでいる商品に鼻を近づけてしまうといけないので、こうした日は家でお留守番をしてもらうことにしています。
市の入り口に差し掛かると、屋台から漂う食べ物の香りと、集まった人たちの穏やかな話し声が聞こえてきます。
子供の頃、お祭りといえば友達と声を掛け合い、目を輝かせて駆け回る場所でした。一方で20代の頃は、お祭りは単なる「通り過ぎる風景」の一つに過ぎず、足を止めることも少なかったように思います。
しかし40代になった今は、妻と一緒に「何が売っているんだろうね」と言い合いながら、一つ一つの店を眺めて歩く時間がとても大切に感じられます。賑やかさの中にも、どこか緩やかな日常の時間が流れているように感じるからです。
ポケットの小銭を探し、妻の手を借りて賽銭箱に硬貨を投げ入れる
市を一通り見て回った後、私たちは賑わいを背にして少し静かな境内へと足を進めます。参拝をする前には、まず自分のポケットを探って小銭がないかを確認します。一円玉や五円玉しか見つからず、「本当に小銭しかないな」と苦笑いしながら、隣に立つ妻に「少し小銭を貸して」とねだるのが、いつの間にか私たちの定番のやり取りになっています。
妻から受け取った硬貨を指先で弾くようにして投げ入れると、木製の賽銭箱の奥で「カラン」と乾いた音が響きます。その音を合図にするように、私たちは背筋を伸ばし、深く頭を下げます。
お寺の境内は市が開かれている外側とは対照的に、人影もまばらで静まり返っています。こうした静けさに身を置くと、川沿いの公園のベンチで腰を下ろす午後に感じたのとよく似た時間の流れが緩む感覚を思い出します。
働き盛りの40代として、平日は常に何かに追われるように過ごしていますが、この賽銭箱の前に立つ数分間だけは、自分の中の空気が「キリッ」と入れ替わるような緊張感があります。
初詣の時も、何でもない週末の参拝も、この神聖な瞬間に感じる気持ちの引き締まり方は、年齢を重ねるごとに強くなっている気がします。
柏手を打ちながら目を閉じ、静まり返った境内の空気を肌で感じる
姿勢を正し、胸の前で両手を合わせます。
パチンと高い音を立てて柏手を打つと、その音が広い境内の空気に溶けていくのが分かります。目を閉じると、先ほどまで聞こえていた市の喧騒が遠のき、自分の呼吸の音だけが耳に届くようになります。
20代の頃は、参拝といってもどこか形式的な動作としてこなしていた部分がありましたが、今は理由もなく足を止めるこの時間が満開の桜が川を覆う橋の上で足を止めた午後と同じくらい、心に残るものになっています。
参拝中の私の横で、妻も同じように静かに目を閉じています。
この時間は、誰かに何かを教わったり、社会的な役割を全うしたりする時間ではなく、ただ一人の住人として、その土地の空気に触れているだけの時間です。周囲を歩く人たちの足取りも、ここでは皆一様にゆっくりとしており、世間のスピード感から切り離されたような不思議な安心感があります。
手を合わせたまま、数秒間の沈黙を味わう。この「何もしない、ただ立っているだけ」の動作が、日々の忙しさの中で擦り減った心を、静かに満たしていくのが分かります。
帰宅して留守番をしていたラッキーに市の様子を報告する時間
参拝を終え、再び市の賑わいの中を通り抜けて自宅へと戻ります。玄関の鍵を開けると、お留守番をしていたラッキーが「どこへ行っていたの?」と言いたげな顔で駆け寄ってきます。僕たちの服に残った外の空気や、市の匂いを熱心に嗅ぐラッキーの姿を見ていると、申し訳なさと愛おしさが同時に湧いてきます。
「あそこのお寺、今日はお祭りがやってたよ」
リビングで一息つきながら、僕が何気なくそう話すと、妻は「それなら私ももっとゆっくり見たかったな、明日も行きたい!」と身を乗り出してきます。
「じゃあ、明日も一緒に行こうか。ラッキーはまたお留守番になっちゃうけどね」
そんな会話をしている間、ラッキーは僕と妻の顔を交互に見つめ、何かを察したように不思議そうな表情を浮かべています。
そんな家族のやり取りを眺めながら、僕は今日撮影したカメラのデータを整理し始めます。満開の桜の時と同じように、今日の市で見た風景や、妻の楽しそうな横顔を写真に残すこと。そして、それをまた家族で共有すること。
神社での静かな参拝と、帰宅後の賑やかな会話。この二つの時間の積み重ねが、僕の40代という日々を、より手触りのある確かなものに変えてくれています。

