重い一眼レフとレンズを抱え、40代の僕が散歩道を歩く午後

週末、散歩の準備をするとき、僕は決まって重い一眼レフカメラを持ち出します。

最近のスマートフォンは驚くほど綺麗に写真が撮れますし、ポケットに収まる軽快さは大きな魅力です。それでも僕は、あえて交換レンズを3本も4本もカメラバッグに詰め込み、肩にずっしりと食い込む重さを感じながら玄関を出ることにしています。

この「重さ」は、僕にとって単なる物理的な負担ではありません。バッグを肩にかけた瞬間、仕事に追われる会社員の自分から、一人の「写真家」のような別人格にスイッチが切り替わるのを感じます。

それは「満開の桜が川を覆う橋の上で、足を止めてファインダーを覗いた午後」と同じ感覚かもしれません。

重ければ重いほど、これから向き合う風景に対して「絶対にいい写真を撮るぞ」という覚悟のようなものが決まるのです。仕事の資料が入ったカバンの重さはため息の種になりますが、レンズの重さは不思議と高揚感に変わります。

タクシーに乗って5分、公園に着くまでの間も、バッグの中にある機材の存在を意識しています。効率や利便性を追い求める40代の日常において、これほど非効率で、手間のかかる趣味に没頭している自分を、どこかで誇らしく思っているのかもしれません。

スマホの画面越しではなく、一眼レフのファインダーで世界の一部を切り取る

公園のドッグラン周辺を歩きながら、僕は適宜レンズを交換し、愛犬のラッキーの姿を追いかけます。

スマホで写真を撮るとき、僕たちは画面という「板」の向こう側にある景色を、どこか客観的に眺めているような感覚になります。これが一眼レフでは、ファインダーに右目を押し当てると、世界の見え方は一変します。

ファインダーを覗き込んだ瞬間、周囲の余計なノイズが消え、視界にはレンズが切り取った「世界の一部」だけが浮かび上がります。それはまるで、特別な風景だけを許された窓から覗き見ているような、密やかな喜びです。

ピントを合わせるために指先を動かし、ここだと思った瞬間にシャッターを切る。その一瞬に向ける真剣な眼差しは、仕事での集中力とはまた質の違う、純粋なものです。

世の中では「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉が流行し、いかに短時間で効率よく成果を出すかが重視されています。そんな中で、重いカメラをぶら下げて立ち止まり、一匹の犬や一本の木に真剣に向き合っている自分は、世間の流れから少しズレているのかもしれません。

けれど、大変な思いをして機材を運び、手間をかけてシャッターを切るからこそ、その一枚に価値が宿るのだと僕は信じています。

20代の僕が抱いた「なぜ綺麗な写真が撮れるのか」という疑問への答え合わせ

今でこそ当たり前のように一眼レフを扱っていますが、20代の頃の僕は、カメラという道具に全く興味がありませんでした。写真は記録できれば十分で、写ってさえいればいいと考えていたのです。

ただ当時、インターネット上で見かけるプロやハイアマチュアが撮った美しい写真を見ては、「どうして自分の写真とこんなに違うんだろう」と、長い間不思議に思っていました。

光の捉え方なのか、それとも加工の技術なのか。当時の自分なりに色々と推測してみたものの、その本当の答えが「カメラ本体のセンサーと、レンズの性能」にあると知ったのは、30代も後半になってからのことでした。

高級なレンズが通す光の柔らかさや、一眼レフ特有のボケ味が、あの憧れた風景を作っていたのだと理解したとき、長年の謎が解けたようなスッキリとした気持ちになったのを覚えています。

もし、効率と刺激ばかりを求めていた20代の自分に会えるなら、僕は少し自慢げにこう言うでしょう。

「君がネットで見て不思議に思っていたあの写真はね、実はこの重いカメラとレンズが答えだったんだ。一度手に取ってみて、自分の目で確かめてごらん」と。

若い頃に感じた小さな疑問に、40代になってようやく自分の道具で答え合わせができた。その過程も含めて、今のカメラ趣味が愛おしく感じられます。

帰宅後に妻と撮影データを見返し、写真のセンスと機材の性能に思いを馳せる

散歩を終えて帰宅し、夜遅くに一息つく時間は、もう一つの楽しみの始まりです。

深夜、妻と一緒にパソコンのモニターを囲み、その日に撮った写真を確認します。こうして撮影データを見返す時間は、境内の市を眺め、妻と並んでシャッターを切った週末の午後にも通じる、僕たちにとって静かな楽しみになっています。

妻もコンデジを持っていて写真が好きですが、特に彼女が好んで撮る花の写真と僕の一眼レフの写真を比べると、画質や解像感には歴然とした差が出ます。

「やっぱり一眼レフは綺麗に写るね。うらやましいな」

妻がそう言って僕の写真を眺めているとき、僕は少しだけ得意げな気分になります。ですが同時に、心の中では少し複雑な思いも抱いています。

なぜなら、画質こそ僕の機材が勝っていても、「何をどう切り取るか」という画角の選び方やセンスに関しては、妻の方が圧倒的に優れていると感じることが多いからです。

カメラやレンズが重すぎるため、妻が僕の機材を使いこなすのは物理的に難しいかもしれません。でも、もし彼女が同じ機材を使えば、間違いなく僕よりも素晴らしい写真を撮るはずです。

機材の性能で勝っていることに安住せず、彼女の持つ感性を見習わなければな、とモニターの明かりの中で反省することもしばしばです。

深夜の静かなリビングで、妻と写真の出来栄えについてあーだこーだと言い合う。そんな何気ない会話の中に、僕が求めている「安定した幸せ」があるのだと感じます。

仕事の忙しさは相変わらずですが、週末にレンズの重さを肩に感じ、帰宅後にその成果を家族で分かち合う。このサイクルがある限り、僕はまた新しい一週間を乗り切っていけそうです。